書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その1

 日本の政治・経済について考えるとき、当然に日本の歴史を理解しておかなければなりません。しかし、日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。

 そもそも日本を統一した「ヤマト朝廷」の成立が4世紀頃で、世界を見渡しても決して古いわけではありません。エジプトでは紀元前27世紀には、もうピラミッドを作る古王朝が成立しており、中国では紀元前16世紀ころに最初の統一国家の「殷」が成立しています。ダビデ王がユダヤのヘブライ王国を建国したのが紀元前11世紀です。

 しかし、その比較的新しい4世紀に成立した「ヤマト朝廷」の成立過程が杳(よう)として分からないのです。その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。

 教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。

 そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏」の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。

 本誌は歴史について書くことが目的ではありませんが、日本の今後を考えるに当たり、特に「官僚組織」について考えるときに、ぜひ読んでもらいたいテーマなので書くことにしました。

 645年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が協力して、権力を一人占めして横暴を極めていた蘇我入鹿(いるか)を皇極天皇の面前で暗殺し、これをうけて入鹿の父親の蝦夷(えみし)も自殺して蘇我氏が滅び、天皇中心の律令体制(後述)を成立させました。

 これを乙巳(いっし)の変、その後の一連の政治改革を大化の改新と言います。

 まあ、これが平均的な歴史の教科書の書き方ですが、実は見事に書きかえられた歴史なのです。

 それまでの政治体制は、天皇を中心として蘇我氏(財政)、物部氏(軍事)、大伴氏(外交)などの朝鮮半島からの外来人である豪族の集団指導体制でした。

 その豪族間の勢力争いに勝った蘇我氏の勢力が強大化し、6世紀に蘇我稲目(いなめ)が自分の二人の娘を欽明天皇の妃とし、それらの妃の間に生まれた子供を次々に天皇に即位させて外戚の地位を確立していきました。

 蘇我稲目の子供が蘇我馬子(うまこ)で、馬子の代に蘇我氏の勢力が絶頂期を迎えます。

 推古天皇は馬子の姪で、その摂政となった聖徳太子推古天皇の甥で、ともに蘇我氏一族なのです。

 つまり、この時点で蘇我氏は天皇家そのものだったのです。

 聖徳太子が冠位12階を定め(603年)、憲法17条を制定し(604年)、遣隋使を派遣した(607年)など数々の功積をあげたとされていますが、これらはすべて馬子の実績だと考えられます。

 その理由は、574年生まれの聖徳太子が、同じ蘇我一族の長であり、約25才年上の馬子を差し置いて、政治の中心、つまり蘇我一族の中心にいたとは考えられないからです。

 馬子は推古天皇在位中の626年に没し、その地位は子の蝦夷と孫の入鹿へと受け継がれていきます。

 実は聖徳太子は622年に没しており、馬子より早く亡くなっているのです。

 「日本書記」では、聖徳太子の死後、その子で天皇候補だった山背大兄皇子を蝦夷・入鹿が攻め滅ぼして政権の独占を図り、それを遺憾に思った中大兄皇子中臣鎌足が立ち上がって蘇我氏を攻め滅ぼしたとされているのですが、ちょっと考えるとおかしいことが分かります。

 名目はどうであれ、天皇家そのものと言える蘇我馬子・蝦夷・入鹿に対し、蘇我氏一族から遠く(従って天皇になれる見込みのほとんどない)中大兄皇子と、同じく出世の見込のほとんどない中臣鎌足が、蘇我一族聖徳太子の子が攻め滅ぼされたからと言って、憤る必要は全くないからです。

 乙巳の変とは、蘇我氏から天皇家を簒奪(さんだつ)した藤原氏の始祖である中臣鎌足のクーデターであり、その時に担いだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)だったのです。

 その大義名分づくりに、聖徳太子を必要以上に神格化する必要があったのです。

 続きます。