謎だらけの日本の誕生  その2

 日本の国家としての成立過程を考えるに当たり、参考になる資料は中国の歴史書しかありません。しかし、中国から人が日本に来て見たものを書いたわけではなく、朝鮮半島に置いた楽浪郡などの拠点から入ってくる情報をまとめたものがほとんどです。

 従って中国の歴史の変遷と、それに伴う朝鮮半島への影響力の両方を見ていく必要があります。中国では支配する国が代わるたびに歴史書が作られています。

 紀元前108年に前漢武帝衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など4群を置きます。そして前漢の歴史書である「漢書」に「楽浪郡の東南海中に倭人あり、分かれて百余国となる。時々(楽浪郡)に来て朝貢している」という記述があり、最古の日本に関する記述です。

 25年に光武帝後漢を建国するのですが、「後漢書」倭伝によると57年に倭奴国王が光武帝に朝貢し、107年にも生口(せいこう。奴隷のこと)160人を天子に献じ、金印を授かったとあります。

 この金印は江戸時代に福岡市志賀島で発見されました。「漢委奴国王」(かんのわなのくにおう)と書かれているのですが、これについては後で述べます。

 そして220年に後漢の将軍だった曹操の息子の曹丕(そうひ)が、後漢の献帝を退位させ魏を建国し、楽浪・帯方の二群を接収します。その魏の歴史書「魏志倭人伝に「邪馬台国」と女王卑弥呼が出てきます。ここでも239年に朝貢して「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を授けられたとあります。この銅鏡については歴史的論争が多いのですが、ここでは省略します。

  265年に司馬炎が魏を滅ぼして晋(西晋)を建国するのですが、歴史書の「晋書」によると、早くも266年に倭王(卑弥呼を継いだ台与のこと)が使者を出したとあります。だから「邪馬台国」は少なくとも266年までは存続していたのです。

 ところが、これを最後に中国の歴史書から倭国が消えてしまいます。これは倭国が行方不明になったのではなく、316年に晋が北から侵攻してきた匈奴に滅ぼされ、中国北部には次々北方民族の国が建国され、五湖十六国といわれました。

 一方、中国民族(漢民族)は南部に逃げ、317年に東晋を建国しますが、420年に宋にとって代わられます。この時代を南北朝と言うのですが、要するに中国全土は大混乱で倭国どころではなかったのでしょう。

 ところが、宋が建国された翌年の421年に「倭王賛」が宋に朝貢して、冠位を授ける詔書を賜ったと「宋書」倭国伝に出てきます。

 つまりその間、約150年の空白時代があり、ちょうど4世紀の「ヤマト朝廷」が成立したと思われるあたりの記述が何もないのです。

 まず、この空白時代の前までの日本について考えてみましょう。

 時代は弥生時代です。

 このころの日本の多数の国(村のようなもの)は、九州北部に集中しており、日本の最先進地域でした。その理由は朝鮮半島から近く、朝鮮半島や楽浪群などを通じて中国から多くの文化を受け入れていたからです。当然、数多くの人も渡ってきていました。

 だから奴国も邪馬台国もすべて九州北部にあったのです。

 そのころの中国(前漢後漢、魏、晋)は楽浪郡などを通じて朝鮮半島を支配していました。また楽浪郡などの役人(?)を日本に派遣して間接的に支配していたつもりなのですが、力で支配したり年貢を徴収したりすることはせず、むしろ朝貢してくれば金印や土産物などを与えて、地域の国王として認めたりしていました。

 先程出てきた「漢委奴国王」と言うのは、「漢の支配下にある委(倭)のなかの奴国の王」と言うような意味なのです。

 しかし、九州北部の国々も中国(前漢後漢、魏、晋)や楽浪郡等に支配されているとは全く思っておらず、たまに朝貢してご機嫌をうかがうことにより、文化や高い技術を持った人々を受け入れて、交易も行っており、十分メリットを得ていたのです。

 まあ、たとえが悪いのですが中国に「みかじめ」を支払うことにより、十分恩恵を受け、日本の最先進地域となっていたのです。近畿地方などよりはるかに進んでいたのです。

 それが空白時代前の日本の姿なのです。

 最近、邪馬台国が近畿にあったという説が有力になってきています。箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと言われているからですが、あり得ません。

 邪馬台国は、空白時代の前の266年までは存続し、その場所は九州北部でしかありえなく、近畿地方はまだ後進地域だったのです。

 それでは、空白時代に何が起き、ヤマト朝廷がどうして後進地域の近畿地方に成立し、巨大古墳が作られるようになっていったのかは、次回に説明します。