ユーロの行方・ヨーロッパの歴史  その2

 このシリーズの2回目です。一昨日に1回目を書いた後、「アレキサンドロス大王はマケドニア人ではなくギリシャ人の一派ではないか」というご指摘を読者の方から頂いていました。

 確かに当時のマケドニアはギリシャの属州であり、現在のギリシャ人にとってもアレキサンドロス大王は自国の英雄のようです。現在のマケドニアはスラブ人の国なのですが、当時のマケドニアとは別の国と言ってもいいようです。

 たしかに、現在のマケドニアが独立するときに、ギリシャがマケドニアの国名を名乗らせるのに難色を示したようです。

 ご指摘ありがとうございました。今後もどんどんご意見をお聞かせください。

 さて先回は、ローマ帝国が紀元前27年のオクタヴィアヌスの即位後、約200年間は繁栄と拡大を続けたところまで書いたのですが、その後は広大な領地に設置した属州がだんだん力を付けてきて反乱を起こすところが出てきて、ローマ帝国の政治・経済が混乱してきました。

 306年に即位したコンスタンティノス1世は、313年にミラノ勅令を出してキリスト教を公認します。

 ここで言うキリスト教とは、ローマの属州のひとつのイスラエルで、ユダヤ教の形式性を批判して逆にユダヤ教の指導者らに反逆者として密告され、磔にされたイエス・キリスト教えを信ずるもので、それまではローマでは迫害の対象になっていました。

 コンスタンティノス1世の決断も、高度に政治的な計算によるものと思われ、それ以降もキリスト教は、常に各国の権力者と密接な関係を保ちながら強大化していき、ヨーロッパの歴史の中で非常に重要な要素となります。

 コンスタンティノス1世は、330年に首都をローマからコンスタンティノープル(今のイスタンプール)に移します。この背景には、コンスタンティノス1世自身が今のセルビアあたり(つまり属州)の出身だったこともあるかもしれません。

 その後ローマ帝国は395年に東西に分裂してしまいます。その理由は、ローマ帝国自体の政治的混乱もあるのですが、直接の理由は4世紀後半に始まったゲルマン民族の大移動です。

 ここから中世ヨーロッパが始まり、世界の中心となっていくのです。

 まず、ゲルマン人の定義なのですが、もともとバルト海沿岸地方(ドイツ北部、スカンディナビア南部)に居住していた民族なのですが、紀元前後からライン川、ドナウ川の北方まで居住地を拡大していました。

 その一部は、3世紀ころには人口増による土地不足から、傭兵や小作人としてローマ帝国内に(属州を含む)に入り込み始めていました。従ってそのころは、ローマ人(ラテン人)に比べて、野蛮な民族と思われていたようです。

 その動きに拍車をかけたのが、アジアからの遊牧民族であるフン族が西進し、375年に黒海北部まで進出し、追い出された西ゴート族ローマ帝国内に侵入したのです。

 ここで、フン族とは中国史に出てくる匈奴(きょうど)の末裔だと思われます。

 匈奴とは、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族で、秦や漢を常に脅かせていました。万里の長城は匈奴が中国内に進出しないように作られたものです。

 匈奴は紀元48年に南北に分かれ、南匈奴後漢と手を結んで北匈奴を滅ぼすのですが、フン族はその北匈奴の末裔ではないかと言われています。匈奴は古い中国語読みでは「フンヌ」と言うそうです。

 余談ですが、北欧のフィンランドフン族の建てた国家だと言われています。しかしフィンランド人はモンゴル人とは似ても似つかない白人なのです。何年か前にF1で世界チャンピオンになったキミ・ライコネン朝青龍の祖先が同じだと言われても、とても信じられません。

 しかし、フィンランド語は他のヨーロッパ語とはかなり違うそうです。逆にフィンランド語に似ているのはハンガリー語だそうです。ハンガリー人もアジア人種と言われており姓のあとに名前が来ます。

 ジョージ・ソロスハンガリー系ユダヤ人ですけど、やはりアジア人には見えませんね。

 話を元に戻しますと、分裂していた西ローマ帝国は476年に、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位され、滅亡します。

 一方の東ローマ帝国ビザンツ帝国として1453年まで続きます。

 一方、キリスト教はローマ市内のヴァチカンに作られたローマ法王庁(カトリックの総本山)に対し、ビザンツ帝国のコンスタンチノープル(東方正教会の総本山)が対立し、1054年に完全に分裂してしまいます。

 そこでもう一度、このゲルマン人とは何かを考えてみたいと思います。

 主にローマ帝国内(属州を含む)に流れ込んだゲルマン人が、その後どうやってヨーロッパのそして世界の覇権を握ったのかを考えてみたいのです。

 しかし紙面を使いすぎましたので、次回にします。